私たちの知性やふところを脅かすものは何ほどのものでもない。私たちの魂を脅かすもののことだけを考えればよい。大きな脅威は常に私たちの内部にある。学者や盗人を恐れる必要はない。それは悲しい自愛に満ちた杜撰な心と、うわべだけの生活に危険をもたらすものだ。私たちは私たちを滅ぼそうとする自分自身だけを恐れているべきだ。
本能に衝き動かされない人間のうちに真に確実なものはあり得ない。もしかしたら、本能は知力にまさっていて、動物は人間よりもすぐれた光明に照らされているのかもしれない。
四百七十二
みごとな物質主義をうまく身につけた者は、正当・不当に得た地位も、変節も、利益ある背反も、ご都合な自己弁解も、そういったすべての人間的責任から離れた喜びを、食っていく喜びに素直に結びつける。彼は自分の人生のためにうまく味つけできる一つの哲学を持っている。その哲理は、美妙で、精緻で、富を愛する者だけが理解することができ、彼の人生のどんな物質的側面にもよく効く万能のソースである。
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]]>四百七十一
いつも辱められている者は、他人の尊敬に飢えている。
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社会的正義によって人類の進歩を果たそうとする人は、怒らなければならない。怒らずに鉄槌を振り下ろすことは偽善にすぎない。憤怒こそ進歩の一要素である。
]]>四百六十九
私は弱い人の方へ振り向き、歩み寄る。自分が弱い人間であることを忘れて、ひたすら見つめる。そうすると、高い空の下に弱者の生きいきとした光耀が認められ、深く愛する気持ちになる。
四百六十八
栄達を拝し、手段選ばぬ成功を尊崇するような、放恣きわまる私利私欲と金力のみに基礎をおく一連の社会組織の前にあって、人間的正義の力がいかに無力であるかを私はとくと思い知らされ、生きる気力を失うほどに慄然とさせられた。私の芸術は、その恐怖と静かな諦念から出発した。
◇
空を見つめる人の悲しみを描いて、地上を見つめる人の悲しみを和らげよう。それこそ私の願うところだ。
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エイゼンシュタインの『イワン雷帝』は詩精神で歴史を扱っている。これは歴史を扱う最もよい方法にちがいない。ごく最近の事件でさえひどく歪められていることを考えると、単なる羅列的な歴史は歪曲の堆積であろうと疑ってよい。それに反して、詩的解釈というものはかえって全体的な把握感を与える。要するに、なまじ史書などというものよりも、芸術作品のほうがはるかに多くの確かな真実を伝えるのである。
キリストは笞をとってエルサレムの寺院から奸商らを追い放った。彼の光輝に満ちた笞は真理を生々しく語る。
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「しょせん世の中は実力より阿諛追従、弁口頓才が第一です」
「蟹は蟹なり鰻の穴には棲めぬと申します、半年一年の眼で見れば弁口頓才も勝ちましょうが、人間一生は五十年が勝負、それは些かお考えが狭くはございませんかな」
「狭くも広くもこれが拙者の本音ですよ」
―山本周五郎『人情裏長屋』
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知性だけがあって情操が皆無というのは悪人の特徴であり、逆に情操ばかりあって知性がないというのは無害の愚者ということになる。知性と情操とが理想的な均衡を得たとき、はじめて悪人でも愚者でない別種の人間が誕生する。その彼らが各分野の覇者であることは望ましいが、そのユートピアに向かってほとんど悪人と愚者で占められている人間界が惜しみなく努力することはまずない。
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四百六十三
私は学術的な知識にははなはだ疎い人間である。それなのに専門家の助言を求めることをしない。しかし、あまりの無知と怠惰に危機感を抱かないわけではない。レッテルや背景や見せ掛けがほしくないわけでもない。それでも私が他に扶けを借りようとしないのは、もし、何らかの形で、無知で怠惰な私の運命に専門家の干渉を加え、いわれのない学術的な幸運を甘受して、がんらい粗末であるはずの運命を変えたりすれば、運命の寵児となった私は相応以上に振る舞わねばならず、その私を貶めようとつけ狙う者たちが、私をさっさと抹殺してしまうような気がして恐ろしいからだ。自力で築き上げた知識に拠る分相応の運命ならば、貶められてもちっとも口惜しくない。
無知と怠惰を押し通そうとする私の心には、さらに深い意味合いがある。私の周囲には、私が人生の大半を通じて知恵の浅い原始人であったことを記憶している大勢の人びとがいて、私の飛躍を決して信じようとしないということだ。私の蓄えた知識に疑惑を抱き、真摯な物思いを信じようとせず、どれほど粗末な知恵に改良を加えようとも、私の雄飛を笑い飛ばす人びとがいるということだ。その範疇は、親族から始まって、身近な友人、そうして同僚をはじめとする細かな知人にまで至っている。彼らは私がものを書くことも、英語の教師をしていることも、趣味の多岐にわたる深化も、どれもこれも分不相応の営為として疑惑の目を向け、アラを捜そうとする。―バカのままでいるにかぎる。このルサンチマンに満ちた決断以外のものを私はよしとしない所以である。
◇
人間の真実について―涙をうかべながら語る者だけを、わたしは賞讃し、尊敬する。―パスカル
]]>四百六十二
頭の回転の速さは意志の力を弱め、不断の知的な分析癖は感情の清新さや判断の明快さを殺す。
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乳色に曇りながら光る空なぞは、私の心を疲れさせた。自然は、私に取っては、どうしても長く熟視(みつ)めていられないようなものだ……
―島崎藤村『千曲川のスケッチ』
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真の成功は、人間を愛想よくする。
文学や演劇にもっとも偉大で豊かな主題を与えつづけてきたもの、すなわち愛、憐れみ、そして人間の心。
―チャプリン『私の自叙伝』
少しばかりものを考える人間というものは、年をとるにつれて反省癖ばかりが強くなり、しかも威厳ばかり気にするようになる。そのせいで、反省癖も威厳もない若者や同輩との親近感が完全に失われてしまう。「生命力にあふれた人間は、反省する必要も威厳をつける必要もない」と、思いつく力がないからだろう。
人生には一つだけ確実な幸福がある―それは他人のために生きることだ。
―トルストイ『家庭の幸福』
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四百五十六
顔の美は微笑にある。微笑が顔の魅力を増すならその顔は美しい。微笑が顔に変化を与えないなら、それはありふれた顔であり、微笑が顔を損ねるなら、それは醜い顔である。
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四百五十五
告白しなければならないような考えは、低劣な考えだ。
]]>四百五十四
老壮期にいたって後、私は嘘をつくという欠点を自分に見出したことがない。私はあまりにも開けっぴろげで、正直すぎるくらいである。が、青年時代の初期、私はしばしばこの上なく破れかぶれの嘘を衝動的についた。簡単に見破られる嘘である。ある小説家に将来を嘱望するような褒め言葉をいただいたとか(そのじつ体よく原稿を返却され追い払われただけである)、高校時代は秀才だったとか(例外的な数度を除いて首席からはほど遠かった)、ユリイカの編集長から激賞されたとか(そのじつ投稿詩が一度掲載されただけである)、理由もないのに女が出て行ったとか(理由は明らかに私の過度の暴力であった)。まったく! 実際とはまるきり別の人間に自分を見せたい虚栄の欲望のせいで、尻尾をつかまれずに嘘をつきたいという衝動に振り回されていたのである。たぶん、実生活では実現不可能な希望に価値を置くあまり、その希望を自分の正体を恥じる気持ちに結びつけたことが、その奇妙な傾向の主な原因だったにちがいない。なんという恥知らず!
あの日々に対する後悔と反省の気持ちが、現在の私を過度な謙虚の気持ちに沈淪させる。それがそのまま作品に結晶する。正直に書く。それがいよいよ、信じられないほどの光輝を放ち、人々に疑いを抱かせる。私の作品の筋立てや人物の絡め方には嘘があるが、書きこまれている一つ一つの事実には(つまり私の正体には)一片の嘘もないのに。しかし、彼らのその疑惑のおかげで、私は自分の正体を知ることができた。正直であろうとするとき、私の人格や思考や経てきた事実が、私のついた嘘と比べ物にならないくらい、あまりにも破天荒なものであったことを、作品をものしながらあらためて知ったということである。私にとって、作品を書く以外に自らの破天荒な正体を知る術があったのだろうか? 幸いに、人格や思考や経てきた事実が破天荒であったがゆえに、私は作品をものすことによって自らの正体を芸術家であると認識できたのである。そうである以上、作品を書くほかに、私らしい生き方はなかったのではないだろうか。
眼高手低の恥を、評論家は権威の大風呂敷で包む。
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四百五十二
ある人間に永年接していても、常に礼儀という虚偽のとばりに隠されて、真の人間関係がついに秘密のままで終わってしまうということが往々にしてある。
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]]>四百五十一
現代人は機械というものがどんな階級の意志にも区別なく従うように、彼らの意志にも大人しく従う奴隷であることを知っている。スイッチやキーを押して奴隷を扱うのに特別な頭脳など必要でないことを知っている。大人しくて勇猛な奴隷さえ抱えていれば、とりわけ現代のように非情な時代にあっては、自分たちだってかつての奴隷時代の政治家や資本家と変わりない恐るべき存在であり得るし、指一本あれば、まるで原子爆弾を投下するように、それを操って一つの都市を破壊しつくすことさえできるはずだと知っている。しかし、その知識は実践されることはない。
新人類とか、PC族とか、ケイタイ猿などと言っても、結局それは、現代という非情のくせに優しい保護森のような体制のもとに雌伏している独裁者の予備軍からよみがえった不死鳥にすぎない。おそらく彼らの態度の素になっているのは、一種の馴致された潜在意識、つまり―人間とはしょせん半獣の存在でしかなく、だからこそ太古以来ひたすら、たいして頭脳を必要としない定型操作が可能な奴隷を使って、欺瞞と暴力という安易で有効な支配体制を確立してきたのだ―という意識をいわば本能的に持ち、それを原動力にして永劫復古する見果てぬ夢であろう。
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人間の使命というのは倫理的完成への志向だが、人間の生活そのものは相変わらず、こせこせと入り組んだ形で流れていく。
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四百四十九
世の中には貪欲に知識を求める人間がいる。動機は二つ考えられる。
?純粋な知識愛。
?無知な自分に向けられる世間の侮蔑からの保身。
前者は聞かれるまでは知識を語ることを好まない。後者は率先して語るために知識を蓄える―と、そんなふうに両極端にスッパリ截断されるわけもなく、隠遁者を別にすれば、たいていはその両者の混合物だろう。その混合物体のことを有知識人というが、彼らのたいていがするまちがいは、みんなに聞いてもらって、褒められたがるということだ。そのときせっかくの知識はイカモノになる。そして熱心な聴衆は、語って詮のないイカモノ食いだけになる。
聴衆の中に一人のイカモノ食いもいないために、一般に語ることのできない知識と言うものがある。卓越した応用と神業的な創造の才を必要とする理科学的な専門知識である。それこそ、快楽主義的なエゴを満足させる、純然たる知識愛に基づいた、真の知識と呼べるものだろう。学問とはこの謂(いい)ではないだろうか。
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]]>四百四十八
私はいろいろな女を得た。しかし、そのすべてが一人の女に向けての旅立ちだった。
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四百四十七
芸術にか、科学にか、女への愛にか、実際行動にか、ただ一度だけ人間に与えられるその力を何に注ぐべきかという衝動を、つまり、一つの願望、一つの思想に傾倒する能力、希望し、そして実行する能力、目的も理由もわからずに、底なしの深淵に頭から飛びこんでゆく能力を奪われている人びとは数知れない。彼らはすぐに人生に入り、最初に手に触れた軛(くびき)を嵌めて、そのまま真面目に働くのである。
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四百四十六
男は何でも女のせいにしたがる。
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小説を書く人間はみな、苦しんでいる人びとを救おうという仏のような心の持ち主なのではないだろうか。でなければ、ひとりの人間の心にあれほどたくさんの人の不幸を納めたり、ひとりの人間の筆先であれほどたくさんの人の悲しみを表現したりすることができるはずがない。
◇
ぼくは何でもわかっていた。金が何よりも役に立つものだということ、人と人とは真実を語り合えないものだということ、人はみな自分のことしか考えないものだということ……
―巴金『憩園』
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思い出をどうして愛さずにいられよう。思い出は私の心をすがすがしくし、高潔なものに洗い直して、最上の喜びの源となる。あれから多くの歳月が流れ、多くの思い出が私にとって意味を失い、漠とした夢に等しくなった。しかし、彼らが私に与えた印象や、心に引き起こした感情は、私の記憶の中でけっして死ぬことがない。
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四百四十三
いっさいの悪は、無思考から生まれる。思考できないかぎり、いかなる範疇に属する人間も悪人である。
]]>四百四十二
人はみな、一部は人の考えで、一部は自分の考えに従って生活する。その割合が人を区別する主要なちがいである。
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理解してくれない大衆の中にあって、ただ二人だけが理解し合っている無二の親友である、という友情関係はまれだ。愛し合う男女においてのみこれが可能となるのは、人間世界の神秘としか言いようがない。
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四百四十
世間に顕著な迷信は、人間には個性があるというものである。しかし、人間は個性を持って峻険に点在などしていない。ただ私たちはある人間について、あいつは善人だとか悪人だとか、頭がいいとか悪いとか、精力的だとか無気力だとか、美しいとか醜いとか言って、ぼんやりと区別しているだけのことだ。
人間というのはみな流れる川のようなもので、どんな川もあらゆる運動の萌芽を秘めた水であることに変わりはなく、ある川は細かったり、流れが速かったり、またある川は広かったり、静かだったり、またある川は濁っていたり、暖かだったりするのにすぎない。どんな人も環境によって運動の形態をちがって見せるので、しばしばまったく別人のように見えるけれども、実際には、その共通した性質のゆえに、いつでも融合できる同一人なのである。
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四百三十九
偽善のためには、多くの粉飾と努力が要る。人を騙したり、悪態をついたり、ぶん殴ったりしなくてはいけない。それはだれにも必要とされない、残酷で、不条理な喜劇である。その喜劇を上演するために整えられた制度から俸給を受ける人びとの集団は、優に一大国家組織を形成する。
ジャーナリストたちが、学者たちが、ときには芸術家たちまでが、政治に対して抗議の言説や文書を突きつけるのを見かける。内外の世界が混沌としているいま、机上で作成したそんな言葉が、世界の混沌を沈静する何らかの効果があるとでもいうかのように。芸術家や学者が、たとえきわめて優れた有名な人であるにせよ、政治のことに関して何か言うべきことを持ってでもいるかのように。
それはおそらく最悪のことだ。もし自分が政治の現場に立って、日々身命を賭けているような人間ならば、なるほど、憤激もし、そのときどきに怒り、憎む十分な権利を持てばよい。しかし、机に棲み家を定めている人の場合、政治を書斎に持ちこみ、人びとのあいだに憎悪を培い、それを激しく掻き立てるような言説を弄する愚行はやめるべきである。悪いものをいっそう悪くし、醜いことや悲しむべきことを増大させるのが、彼らの任務であるはずがない。それらすべての発言は、思考の欠陥に、心の安易さに基づいている。
思慮の浅いジャーナリストや学者や芸術家にとっては、人間の精神界に存在しない価値の薄い抽象的なもののほうが、精神界に存在して価値の濃いものよりも、言葉で表現するのに容易であり、表現の責任も伴わないかもしれないが、人間の精神に対して謙虚で良心的なジャーナリストや学者や芸術家にとっては、まさにその反対なのだ。
すなわち、あらゆる人事・精神現象の物理的存在は証明することができないし、言葉に定着して真実めかせることは困難だけれども、謙虚で良心的な彼らがそれを厳かな存在物として取り扱うことで、生き生きとした、普遍的な精神の衣装に織り上げることができる。そういう衣装ほど言葉で織り上げにくいものはないが、また、そういう衣装ほど言葉の繊維を密にして人びとに精神の暖をとらせる必要のあるものもない。それは人間文化の超国民的な衣装だからだ。内外のポリティックスに対する喜びより、人間に対する喜びを慈しむ衣装だからだ。机から去らないことを彼らが決意したとき、彼らは世界に属したのである。
自分の内奥の生命力を信じない者やその生命力を欠いている者は、金力や権力といった、文明社会の中で過大評価され、千倍にも見積もられてきた代用物で補充しなければならない。自己の内面的な法則を強い意志の力で身にまとう人びとのあいだでは、世界は文明の進歩と無関係にもっと豊かに高く栄える。そういう人びとの世界では、時代時代の政治家を煩わせるような諸問題は(そのほとんどが他人の持ち物を欲しがることからもたらされる問題だが)もはや問題ではない。彼らが心を用いるのは、もっとほかのことに対してである。どの時代にも共通の、草の茎のような深く絶妙な自己成長、すなわち文明の利益を貪るのとはちがった利己主義である。それがもとになって多くの人びとが悩まし合い、殺し合うような、不満を言いながらの文明社会への適応といったものは、彼らにとってほとんど価値がない。
彼らはたった一つのものだけを尊重する。彼らに生きよと命じ、彼らの普遍的な成長を助ける、人間固有の神秘的な力だ。この、時代人である前に、普遍的な生命の連続体であることを喜ぶ力は、文明の流行に順応しようとする批判者によっては、獲得されることも、強められることも、深められることもなく、人間であることを素朴な喜びの中で享受する謙虚で良心的な知恵の人によってのみ可能なのである。
]]>四百三十七
自己の心に殉じる勇気を持つ人だけが、人類の永久の神殿に祀られる。おそらく次の言葉もその謂(い)
いだろう。
◇
運命と心とは同一概念の名称である。
―ノヴァーリス
]]>四百三十六
どんな人間の内部にも二人の人間が住んでいる。その一人は、他人にとっても幸福となるような幸福しか自分に求めない精神的な人間であり、もう一人は、自分のためだけの幸福を追求するためには、全世界の幸福をも犠牲にすることを辞さない動物的な人間である。
―トルストイ『復活』
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私に切要なのは、神秘的な創造物である自然の中に(書割と知りながらも感動して)たたずむことや自分より先に生きて思索し感得した人びと(詩人)との魂の交流であり、人間社会の制度や他人との余儀ない交際や身過ぎの富ではない。私にとって必要であり大切なのは、自分の精神的自我を信じることであり、生命を維持するために他人の作り出した機構を信じることではない。
自分自身を、自分自身の愛情を信じて生きていくことはあまりに辛い作業である。自分自身を信じて生きていくということは、常にあらゆる問題を、安易な歓びを追求する唯物的な自我のためにではなく、たいていの場合、かえってその反対の方向で解決しなければならないということだ。自分を信じていれば常に他人から批判を受けるが、他人の作り出した機構を信じていれば逆に周囲の人びとから賛同を得られる。愉しいことだ。賛同を得られない人生は苦しい。
徒手空拳で富の仕組みや愛について考えこめば、人は彼を滑稽な見栄っ張りの哲学者と見なし、財力と素封家との交際から生じる優越感をもとに贅沢な遊びをしたり装飾的な些事にふけったりすれば、人は彼のことをこなれた一人前の人間と誉めそやし、嘆くどころかむしろ祝福する。贅沢や装飾を得るための堕落をただす行為は人を恐怖に陥れ、非難と嘲笑の的になり、屈して堕落の人生にかしずけば、安堵され、仲間だと思われる。人は自分を信じて行動する人間にゾッとしないではいられないのである。
自分の矜持のために闘うことは苦しい。自分を信じて善と考えることはすべて、周囲の人びとによって悪と見なされ、自分を信じて悪と考えることは、周囲の人びとによって善と見なされる。結局、兜を脱いで自分を信じることをやめ、他人のしきたりを信じるようになる。屈服の不快感はわずかのあいだで、まもなく悩みもなくなり、かえって大きな解放感を味わうという段取りである。これこそ内なる声の完全なる黙殺―いわゆる人間的完成と称されるものである。
闘う人間は未完成の烙印を捺される。闘いが未完成の人間に特徴的なものならば、人は未完のままいるべきだろう。完成が人間を本質的に堕落させ、本質的な無為とエゴイズムの狂気に陥れるものならば、未完成のまま高貴な有為の知性に埋没するほうがいい。他人のしきたりという無制限の権力に隷従しないことからもたらされる高貴な苦悩は、魂の一瞬の覚醒にしか訪れず、そのわずかな覚醒は瞬く間に過ぎる。暢々と解放感になど浸っておれないのである。
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日常の生活に他から求められる余儀ない都合さえあれば、その都合を狂わせたり失ったりするのが惜しいので、人は罪を犯す暇がなくなる。犯罪の温床は、信頼に見返る必要のないところに生じる怒りや絶望や自棄を育む『暇』である。
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四百三十三
姦夫は決して女の亭主を嫉妬しない。
―モラビア『倦怠』
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四百三十二
どんな女性の美も、特定の男性に向けられたものではない。彼女はそのまま美的に完結して存在するのである。有機的な人間のことにかぎらない。たとえば自然といったような無機物でさえ、それが美を提示するのは自分に向けてではないと感知し、自分とは別の、自分からは独立した存在であると感じることが大きな喜びであるような、尽きることのない共存の満足感をもって描かれた芸術は少ない。普遍の照射を行う他を見つめながら、自らも普遍の照射を願う静かな決意にあふれ、他の照射の助けを借りて自らを発光させようという野心を封じる鋭いくびきとでもいったものを内蔵する、厳かな芸術に浸りたいものだ。
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四百三十一
倦怠と性的狂乱のあいだを交互に往復していた時代に、私の使命はその時代から脱皮しないことに定まった。
川田拓矢0歳
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十五歳 ― あの女の涙。彼女は何か重要なことをしゃべりながら思わずポロリと涙をこぼした。でもそれは、あたかも彼女の思想を象徴するような性質のものであって、つまり私には迷惑きわまる涙だった。そのひとしずくの涙こそ、そのとき私を彼女のものにしたすべての力で、また、いまもなお私をしっかりと呪縛している罠であった。
川田拓矢 21歳
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私の文学は、知性の変容を基とする文明魂は希薄かもしれないが、人間感情の不変とその遵守を基とする文化魂には満ちているだろう。
川田拓矢 17歳
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私は現実の人や事象を、現実に囲繞(いじょう)された人や事象として見ない。現実に目を閉じ、永劫不変の観念境に飛翔しようとする。私の視野には、記憶された理想世界だけがある。もし私が現実のために性格を変えてしまったとしたら、そういう私はもう私ではない。私はどこまでも理想を考える。私は現実の相をもって観念上の理想を喚び起こす媒介とする。
私の現実認識があまりにみすぼらしいのを気の毒がり、もう少しうわべを整えるよう諷する者があるが、私は耳にもかけない。だれしも現実が見えないことは不幸だと思うだろうが、私は理想にこだわることによって不幸という感情を味わった経験がない。むしろ反対に、この世がパラダイスにでもなったように思われ、理想とただ二人で生きながら彩り鮮やかな極彩色の世界に住んでいるような心地がする。
それというのも、現実を考慮しなくなると、それに拘泥していたときに見えなかったいろいろのものが見えてくるからだ。人の心の美しさもしみじみと見えてきたのは、理想を思うようになってからだ。現実認識に齷齪(あくせく)していたときにこれほどまでに幸福感を得られなかったのはなぜだろうと不思議に思われる。
人は記憶の中の理想世界を失わないかぎり、傍らに現実に存在しない人を夢に見ることができる。それどころか、現実の中で生きている現実の人まで夢のような理想の中に見ることができる。現実にそばにいたとき(あるいはいるとき)とはまったくちがった像を作りあげ、いよいよ鮮やかにその姿を見ることができる。醜を美に回帰させることができる。
すなわち、人や事象を芸術作品として描けば、それらは現実に存在しない作中物と同様なものと看做(みな)しつづけることができるが、逆に私のほうから現実に生きているものに働きかければ、それが何か疑わしい捉えどころのないものと考えざるを得なくなり、そのためにかえってそれらが何か超現実的なものとなる。私はその超現実感を享受し、また同時に、いったいなぜいまそれらが私にそう見えるのかを理解しようとする。私は注意深くそれを見つめる。生まれて初めてそれらを見るように、創造されたばかりのように新鮮なそれらを見つめる。すると、私の感覚の最も皮相な知覚ではそれらは現に存在すると感じはするが、しかしそのために、決して真の現実感を覚えさせないものに還元されてしまう。
なるほどこれら一連の作業が、世間の言う現実認識の貴重さの所以とされているようだが、注意深く見さえすればという条件を附すなら、記憶された理想世界に生きる人や事象も、同様に、きわめて細部まで、現実のそれらにも増して一層はっきりと見えてくるのである。それ自体が目に映ってくるように、つまり、眺めたり観察したりしないでも、目に入ってくるように見えてくるのである。しかも私の理想の形で。私はこの第二次的な現実に対して、かくも生きいきとした、はっきりとした外形に一つの魂を入れる価値のある作品的な現実に対して、人や事象の真の在りようを現実的なものに見せる無意識の力のようなものを、それこそ貴重で強勇な力を認めたのである。
川田拓矢 16歳
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時代錯誤的な芸術家だけが創造的でありえる。
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四百二十六
日本人にはアイデンティティーがない、などという知識人の発言を聞くと、私は首をひねる。私が長く生きて経験してきたところによれば、アイデンティティーの強烈な所有者は、日本にも外国にも同じ割合で存在する。しかもどんな分野にも確実に存在する。肩書きと権威獲得に人生を費やしたわが国の文化人どもは、外国人のアイデンティティーの輝きはすぐに認めて感服するが、たまさか日本にそのような人物がいると、せっかく築き上げたプライドを身近すぎる存在に傷つけられるのを恐れて黙殺する。わが国では彼らの見解がすべてである。そこで、日本にはアイデンティティーの乏しい人物しかいないという結論になる。
彼らの敬遠するアイデンティティー豊かな人物というのは、したいことだけをして、いやなことは絶対にしない快楽原理で生きている。その原理は、困難な目標を設定してそれを達成することにある。からだの内部に一つの欲求が生まれると、彼はそこに向かって心身ともにあらゆる努力を惜しまない。彼は『艱難なんじを玉にす』とか『努力こそ人生最高の徳義』などといった堅苦しい倫理観を持っていない。思い定めた快楽の実現を図り、そのために未開の地へ足を踏み入れることに情熱を燃やす。とにもかくにも、『これをやらなくてはならない、やらないと収まらない』という虫が体内にいるのである。時間をかけて、あらゆる手段を尽くし、場合によっては倫理を破壊してまでも思いを遂げようとする。
その結果彼は偉大な仕事をする。彼の業績を初志貫徹とか、堅忍不抜の成果などという言葉で讃美するのは適切でない。彼はエゴイストではないが、しごく気儘な人間であり、すべてを圧倒する特殊美学を頑迷に持っている。彼は、決意によってことを行うのではない。理路整然としない、また輪郭鮮明でもない美的なヴィジョンが彼の体内に宿り、完成形とおぼしきものが現実的な像を結びはじめる。その過程で彼はえも言えない快感に襲われ、その快感に励まされながら焦点を絞っていく。ヴィジョンはようやく鮮明な像を結ぶ。その像は彼の特殊な美意識によって最終的な手入れを受ける。それが最初のヴィジョンから少しでも逸れていると、彼は不快になる。
しかく彼の行為はかならずしも合理的に遂行されるのではなく、強いアイデンティティーが包蔵する特殊な美意識、あるいは快感に衝き動かされて進行するという不可解な面を常に持っている。かくなるアイデンティティーの塊である天才を、美意識と快美感を持たない知性人が理解しえずに敬遠するのは理の当然であろう。
どんなにすぐれたよいものであろうと、他人が見出し、使ってしまったものには熱意を示さず、自分が苦心して見出したものだけに精進するのが芸術家の魂である。
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すぐれた技術なくして、気韻生動はありえない。
]]>四百二十三
友人とは、彼といっしょに悪いことをしてみたくなるような人間を謂う。
―アンドレ・ジッド
JUGEMテーマ:読書
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―トルストイ『クロイツェル・ソナタ』
四百二十一
孤独から逃れる手段方法がないとわかっていながらだれかを求めるのは弱さだし、騒ぎや面倒のほとんどはその弱さから持ち上がる。
]]>
四百二十
神は人類の中の卑怯者を選び出して文明を仮託する。
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奴隷はどうしても相手をさがして苦しみを訴えたがる。ただそうしたいのであり、またそうしかできないのである。
]]>
自分よりも何かの点で優越した他人にあやかりたいと思う人びとの考えることは似ているので、住む場所も、家も、調度も、嗜好品も、身につける資格までもよく似ている。どれもこれも、ある種の人びとがある種の人びとにあやかりたいために整えるものだ。ところが彼らには模倣の意識はなく、それぞれがみな自分のしていることを特殊なもののように思っている。
]]>
進歩と言われるものはすべて、質的な退歩を意味している。
]]>四百十六
自分の都合ばかり考えている人間は、学問があっても才知があっても財産があっても、あんまり貴いものではない。
― 伊藤左千夫『姪子』
]]>四百十五
ばかなことをしたり思わぬ羽目を外したり、そのために泣いたり苦しんだりするのが、人間の人間らしいところじゃあないだろうか……
]]>