人間に対する喜びを慈しむ衣装

        四百三十八  

 

 ジャーナリストたちが、学者たちが、ときには芸術家たちまでが、政治に対して抗議の言説や文書を突きつけるのを見かける。内外の世界が混沌としているいま、机上で作成したそんな言葉が、世界の混沌を沈静する何らかの効果があるとでもいうかのように。芸術家や学者が、たとえきわめて優れた有名な人であるにせよ、政治のことに関して何か言うべきことを持ってでもいるかのように。

 それはおそらく最悪のことだ。もし自分が政治の現場に立って、日々身命を賭けているような人間ならば、なるほど、憤激もし、そのときどきに怒り、憎む十分な権利を持てばよい。しかし、机に棲み家を定めている人の場合、政治を書斎に持ちこみ、人びとのあいだに憎悪を培い、それを激しく掻き立てるような言説を弄する愚行はやめるべきである。悪いものをいっそう悪くし、醜いことや悲しむべきことを増大させるのが、彼らの任務であるはずがない。それらすべての発言は、思考の欠陥に、心の安易さに基づいている。

 思慮の浅いジャーナリストや学者や芸術家にとっては、人間の精神界に存在しない価値の薄い抽象的なもののほうが、精神界に存在して価値の濃いものよりも、言葉で表現するのに容易であり、表現の責任も伴わないかもしれないが、人間の精神に対して謙虚で良心的なジャーナリストや学者や芸術家にとっては、まさにその反対なのだ。

 すなわち、あらゆる人事・精神現象の物理的存在は証明することができないし、言葉に定着して真実めかせることは困難だけれども、謙虚で良心的な彼らがそれを厳かな存在物として取り扱うことで、生き生きとした、普遍的な精神の衣装に織り上げることができる。そういう衣装ほど言葉で織り上げにくいものはないが、また、そういう衣装ほど言葉の繊維を密にして人びとに精神の暖をとらせる必要のあるものもない。それは人間文化の超国民的な衣装だからだ。内外のポリティックスに対する喜びより、人間に対する喜びを慈しむ衣装だからだ。机から去らないことを彼らが決意したとき、彼らは世界に属したのである。

 自分の内奥の生命力を信じない者やその生命力を欠いている者は、金力や権力といった、文明社会の中で過大評価され、千倍にも見積もられてきた代用物で補充しなければならない。自己の内面的な法則を強い意志の力で身にまとう人びとのあいだでは、世界は文明の進歩と無関係にもっと豊かに高く栄える。そういう人びとの世界では、時代時代の政治家を煩わせるような諸問題は(そのほとんどが他人の持ち物を欲しがることからもたらされる問題だが)もはや問題ではない。彼らが心を用いるのは、もっとほかのことに対してである。どの時代にも共通の、草の茎のような深く絶妙な自己成長、すなわち文明の利益を貪るのとはちがった利己主義である。それがもとになって多くの人びとが悩まし合い、殺し合うような、不満を言いながらの文明社会への適応といったものは、彼らにとってほとんど価値がない。

 彼らはたった一つのものだけを尊重する。彼らに生きよと命じ、彼らの普遍的な成長を助ける、人間固有の神秘的な力だ。この、時代人である前に、普遍的な生命の連続体であることを喜ぶ力は、文明の流行に順応しようとする批判者によっては、獲得されることも、強められることも、深められることもなく、人間であることを素朴な喜びの中で享受する謙虚で良心的な知恵の人によってのみ可能なのである。