ニュルンベルグ裁判

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三百九十八
 
 『ニュルンベルグ裁判』という古い映画がある。かの『老人と海』で有名な男優スペンサー・トレイシー演じるアメリカの判事が、ニュルンベルグにおける戦後処理裁判の場で、かつてナチに加担したある人物(バート・ランカスター)を裁く。被告はドイツのもと司法高官であり、ナチに迫害される人びとを懸命に救おうと努めた清廉この上ない人物であった。しかし、その高潔さが発揮されたのは戦況が煮つまってきてからの話で、ナチズムの初期にあっては、彼はユダヤ人に対する偽りの裁判に尽力したのだった。係争点はそこであった。
 被告が自己弁護のために、
「私は強制収容所についても、そこでの死者についても何一つ知らなかったし、想像することすらできなかった」
 と述べると、アメリカの判事は、
「いや、あなたは一人の人間を無実と知りながら有罪としたその日に、そのことを想像できたはずだ」
と、想像力の欠如を指弾する言葉で切り返す。
被告は自らの浅はかさから、自らの性向に反する誤った道を選んだが、すぐに疑念にとらわれ、それに気づき、誤りを正したのだった―彼には時宜を選ばない想像力が欠けていたというわけなのである。
 私たちは、自分が一貫性を失わず徹底して勇気を保たなければならないこと、決定的な時点において勇気に欠けたしかじかの選択が重大な結果を招くだろうこと、しかし実際には野心や都合主義のために譲歩・屈服してより容易な道を選んでいることを知っている。
 倫理的な問題は、それが慣習的なマヤカシでなく、真に人間的な道徳上の問題であるならば、一個の人間をジレンマの形で苦しめる。それが善か悪かというふうにではなく、どちらも良いことで重要と思えることの二者択一を行なわなければならないというふうに。私たちが恐怖に挫けない自由な精神を持ち、しかも自分自身に対してほんとうに誠実である場合にのみ、正確に善悪の判断を下し、最も真実で最も正しいと思うものをつかみ取る力を持つことができる。
誤った偏見や慣習をはじめとするイデオロギーや思想への加担は常に、悪に満足し、悪を容認し、悪を正当化する精神的な弱さから出発する。そこには、悪を閉じこめる自己欺瞞がかならず含まれている。じつは欺瞞の渦中に暮らす彼らにも、正義・公正・廉潔といった理念はある。しかしその理念実現のためには、悪を実践することが不可欠であり、他に方法はないと思いこむのである。実のところ、他に方法がないと思うこと自体が自己欺瞞なのである。
 それでは、自己を偽らない道はあるのだろうか? それは、常に、明らかに、私たちの前に敷かれてある。思う力、すなわち想像力の翼の手入れを怠らないことでその道は見える。ただし、実際に歩みだしたとたん、その道は険阻で、歩みつづけるには困難と苦労が大きいとわかる。悪の道のほうが平坦で歩きやすいのである。