からだ

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 三百九十九
 
 医者に病気を根治させることは不可能だろう。私たちのからだは、突発事故がないかぎり、生態系という環境の中で定められた時間を、一定の老化に蹂躙されながら歩み切らなければならないようにできている。その生命維持の過程で、環境の影響と組織細胞の疲労から、身体の各部に異常事態が生じる。
 時間を歩むとはいえ、私たちのからだは新品の代替部品で修復可能な時計機械とは似て非なる生命体である。エネルギーの摂取は複雑に過ぎ、各部に油をさすこともできなければ、錆止めも効かない。 
 医者という時計屋にできることは、突発事故の事後処理か、異常事態を発生した生体時計をこじ開けて、めくら捜しにネジを探り当て、ちょっと調整のために触ってみるぐらいのところであろう。どれほど腕がよくても、あらためて回春のネジを巻くことはできないのである。

ニュルンベルグ裁判

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三百九十八
 
 『ニュルンベルグ裁判』という古い映画がある。かの『老人と海』で有名な男優スペンサー・トレイシー演じるアメリカの判事が、ニュルンベルグにおける戦後処理裁判の場で、かつてナチに加担したある人物(バート・ランカスター)を裁く。被告はドイツのもと司法高官であり、ナチに迫害される人びとを懸命に救おうと努めた清廉この上ない人物であった。しかし、その高潔さが発揮されたのは戦況が煮つまってきてからの話で、ナチズムの初期にあっては、彼はユダヤ人に対する偽りの裁判に尽力したのだった。係争点はそこであった。
 被告が自己弁護のために、
「私は強制収容所についても、そこでの死者についても何一つ知らなかったし、想像することすらできなかった」
 と述べると、アメリカの判事は、
「いや、あなたは一人の人間を無実と知りながら有罪としたその日に、そのことを想像できたはずだ」
と、想像力の欠如を指弾する言葉で切り返す。
被告は自らの浅はかさから、自らの性向に反する誤った道を選んだが、すぐに疑念にとらわれ、それに気づき、誤りを正したのだった―彼には時宜を選ばない想像力が欠けていたというわけなのである。
 私たちは、自分が一貫性を失わず徹底して勇気を保たなければならないこと、決定的な時点において勇気に欠けたしかじかの選択が重大な結果を招くだろうこと、しかし実際には野心や都合主義のために譲歩・屈服してより容易な道を選んでいることを知っている。
 倫理的な問題は、それが慣習的なマヤカシでなく、真に人間的な道徳上の問題であるならば、一個の人間をジレンマの形で苦しめる。それが善か悪かというふうにではなく、どちらも良いことで重要と思えることの二者択一を行なわなければならないというふうに。私たちが恐怖に挫けない自由な精神を持ち、しかも自分自身に対してほんとうに誠実である場合にのみ、正確に善悪の判断を下し、最も真実で最も正しいと思うものをつかみ取る力を持つことができる。
誤った偏見や慣習をはじめとするイデオロギーや思想への加担は常に、悪に満足し、悪を容認し、悪を正当化する精神的な弱さから出発する。そこには、悪を閉じこめる自己欺瞞がかならず含まれている。じつは欺瞞の渦中に暮らす彼らにも、正義・公正・廉潔といった理念はある。しかしその理念実現のためには、悪を実践することが不可欠であり、他に方法はないと思いこむのである。実のところ、他に方法がないと思うこと自体が自己欺瞞なのである。
 それでは、自己を偽らない道はあるのだろうか? それは、常に、明らかに、私たちの前に敷かれてある。思う力、すなわち想像力の翼の手入れを怠らないことでその道は見える。ただし、実際に歩みだしたとたん、その道は険阻で、歩みつづけるには困難と苦労が大きいとわかる。悪の道のほうが平坦で歩きやすいのである。

何ごとをも課さず

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         三百九十六

 
他人には何ごとをも課さず、他人については語ってはならない。とりわけ、社会という名で。
 

外見は欺かない

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        三百九十五

 

 外見は欺かない。うかつな目だけを、好意と度量をてらう寛大な、欺かれたがっている目だけを欺く。

そもそも私たちの心は、第一印象にすっかり染まるようにできている。それが誤ることは天文学的な確率でまずあり得ないのに、私たちは客観という亡霊に魅せられ、自分のことを先入主の権化と非難して、その印象を消し去ろうとする。

しかし、歴日を経て、当の人物に裏切られ、最初の警戒の印象が正しかったことを悔やむ。あらゆる人間は、相手を即座に見抜く能力を備えている。色彩を見分けたり、音調を聞き分けたりするのと同じ精度で、他人の内面を見て取る。

 微笑は「好意あるいは愛情」であり、逃げるような眼差しは「不信あるいは嫌悪」であり、無礼な態度は「軽蔑あるいは悪意」であり、無関心は「興味の欠如あるいは嫉妬」であり、過剰な応諾は「弱さあるいは恐怖」である。

すべてが水のように透明である。第一印象は私たちの心の深奥の超高感度フィルムで撮られた写真である。相手は初めと同じであり、常に同じであり、まったく変わらなかったのだ。寛容をてらい忘却に意義を見出した罪の贖いは、いつも自分だけがしなければならない。

 

情熱

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             三百九十四

 

 あきらめよりも情熱を、冷笑よりも信念を、無関心よりも熱中を!

身軽で、無心で、謙虚な一歩

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         三百九十三

 

 自らの生き方を疑う動揺や混迷の危機に陥ったとき、これまでとちがったアングルからものを見、これまでの習慣的な実践を超えて、初々しい生活の創造をする必要が生じる。その動揺や混迷は一見病に似ているけれども、治癒する必要のない創造のための精神的錯乱であり、長くいとおしんできたせいで硬直化した確信を破壊しようとする情緒の痙攣にほかならない。この混沌の闇でこそ、自信喪失や疑念という名の生存の危機を知らせるリセット信号に促されながら、身軽で、無心で、謙虚な一歩をふたたび踏み出さなければならない。


  

慣習と先入観

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         三百九十二

 

 慣習と先入観から距離を置くこと。だれも口にしない真実を見て取り、だれも考えないことを発見すること。

究める

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         三百九十一

 

 私たちは、自分が欲するもの、好むもの、恐れるものだけを見、感じる。それこそ理想や希望の動機である。人間の偉大な仕事のすべては、深い情熱と動機があってはじめて生まれる。目標に魅せられ、それに没頭専念し、ほかのことは考えないといった状況下ではじめて為される。たとえ耐え難いほど苦しくとも、自分の感動をとことんまで究めるのでなければ、絵画も音楽も詩も生まれない。偉大な先人たちが彼らの胸に萌(きざ)した模糊とした感情を恐れたならば、あれらの傑作は誕生しなかっただろう。

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