二次的現実

         四百二十八

 

 私は現実の人や事象を、現実に囲繞(いじょう)された人や事象として見ない。現実に目を閉じ、永劫不変の観念境に飛翔しようとする。私の視野には、記憶された理想世界だけがある。もし私が現実のために性格を変えてしまったとしたら、そういう私はもう私ではない。私はどこまでも理想を考える。私は現実の相をもって観念上の理想を喚び起こす媒介とする。

 私の現実認識があまりにみすぼらしいのを気の毒がり、もう少しうわべを整えるよう諷する者があるが、私は耳にもかけない。だれしも現実が見えないことは不幸だと思うだろうが、私は理想にこだわることによって不幸という感情を味わった経験がない。むしろ反対に、この世がパラダイスにでもなったように思われ、理想とただ二人で生きながら彩り鮮やかな極彩色の世界に住んでいるような心地がする。

 それというのも、現実を考慮しなくなると、それに拘泥していたときに見えなかったいろいろのものが見えてくるからだ。人の心の美しさもしみじみと見えてきたのは、理想を思うようになってからだ。現実認識に齷齪(あくせく)していたときにこれほどまでに幸福感を得られなかったのはなぜだろうと不思議に思われる。

 人は記憶の中の理想世界を失わないかぎり、傍らに現実に存在しない人を夢に見ることができる。それどころか、現実の中で生きている現実の人まで夢のような理想の中に見ることができる。現実にそばにいたとき(あるいはいるとき)とはまったくちがった像を作りあげ、いよいよ鮮やかにその姿を見ることができる。醜を美に回帰させることができる。

 すなわち、人や事象を芸術作品として描けば、それらは現実に存在しない作中物と同様なものと看做(みな)しつづけることができるが、逆に私のほうから現実に生きているものに働きかければ、それが何か疑わしい捉えどころのないものと考えざるを得なくなり、そのためにかえってそれらが何か超現実的なものとなる。私はその超現実感を享受し、また同時に、いったいなぜいまそれらが私にそう見えるのかを理解しようとする。私は注意深くそれを見つめる。生まれて初めてそれらを見るように、創造されたばかりのように新鮮なそれらを見つめる。すると、私の感覚の最も皮相な知覚ではそれらは現に存在すると感じはするが、しかしそのために、決して真の現実感を覚えさせないものに還元されてしまう。

 なるほどこれら一連の作業が、世間の言う現実認識の貴重さの所以とされているようだが、注意深く見さえすればという条件を附すなら、記憶された理想世界に生きる人や事象も、同様に、きわめて細部まで、現実のそれらにも増して一層はっきりと見えてくるのである。それ自体が目に映ってくるように、つまり、眺めたり観察したりしないでも、目に入ってくるように見えてくるのである。しかも私の理想の形で。私はこの第二次的な現実に対して、かくも生きいきとした、はっきりとした外形に一つの魂を入れる価値のある作品的な現実に対して、人や事象の真の在りようを現実的なものに見せる無意識の力のようなものを、それこそ貴重で強勇な力を認めたのである。

 

川田拓矢 16歳

 

無題

          四百二十四

 

 すぐれた技術なくして、気韻生動はありえない。

教育と奴隷制度

         四百二十二

 

  • 教育から生まれるのは、愚劣さだけだ。
  • 奴隷制度というのは、大多数の強制的な労働を一部の者が利用することにほかならない。だから、奴隷制度をなくすためには、人びとが他人の強制労働を利用することを望まぬようにして、それを罪悪か恥辱とみなすようになることが必要だ。にもかかわらず、奴隷制度の表面的な形を取り払い、廃止して、今後は奴隷に対する不動産登記ができないようにすれば、それでもう奴隷制度が存在しないものと想像し、自己を納得させ、実際には人びとが相変わらず同じように他人の労働を利用することを好んで、正しいよいこととみなしている以上、依然として奴隷制度は存在しつづけている……

                       ―トルストイ『クロイツェル・ソナタ』

 

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孤独

 

         四百二十一

 

 孤独から逃れる手段方法がないとわかっていながらだれかを求めるのは弱さだし、騒ぎや面倒のほとんどはその弱さから持ち上がる。

 

思い出

JUGEMテーマ:読書
         三百九十七
 
 果てしない記憶喪失の中で、思い出は人生の半ばを蝕むゲヘナである。
 
 

恋愛

                                                             三百七十九

 
JUGEMテーマ:読書
 
 わが国では恋愛と性欲は卑しいものとされてきた。それが生存権を得たのは、西洋流の考え方が開国時に輸入されてから以降のことである。かつて平安を代表とする時代にその種の文学が一世を風靡したことがあったとしても、なお一般の人びとの心底では、愛と性は陰湿で品位の劣ったものとされ、それを描くことは健康な常識人の生涯を賭すべき仕事ではないと考えられた。淫蕩文学と私の目する『源氏物語』でさえ、あえて教訓的読み物に歪曲され、長きにわたって日本人特有の体裁作りが図られてきた。
 一般に日本流の覆育(ふいく)方針というものは、西洋流とは反対に、できるだけ個性を殺すことにあった。絶えずいにしえを模範とし、それに復古しようとする傾向があった。これが日本人の意識革命を遅らせた所以だが、よくも悪しくも、私たちの祖先はみなその心がけで、倫理の修養においても、自分を立てるというよりは、先哲の道を遵ることを第一義とした。とりわけ女性は、自分を殺し、私的な感情を去り、個としての長所を没却して、自らを貞女の典型に当て嵌めるよう努めた。
 まさに西洋文学はそのような歴史的環境に斬りこみ、古来の倫理道徳に凝り固まった人心から、恋愛と性欲を解放したのである。その成功の所以を考えてみればしごく当然のことで、七百年も以前に書かれたかのダンテの『神曲』ですら、この偉大な詩人の初恋を契機に生まれており、ゲーテにせよ、トルストイにせよ、バルザックにせよ、一世の師表と仰がれる人びとの作品は、不倫や、失恋や、殺人・自殺を描き、道徳的にはかなり危うい状況を扱っているのだが、それにもかかわらず、その人間を謳う調子が常人の想像を絶して高いこと到底わが国の文学の比肩し得るところではないと、いかに固陋な国民も痛切に悟ったのである。
 文学を先鋒とする諸々の芸術は、国家や国民の性向の指標であると同時に、それに一歩先んじて、その枠を超えた飛びぬけた個性と才質豊かな神人の意志の方向を示すものでなければならないことは、だれの理の通った説明を待つまでもなく自明の法則である。
            

教育と文化

 

        三百四十七

 

 教育は文化ではない。教育はなすべきことである。たとえば映画を観るために教室を抜け出していく人がある。教育はその人を停学にすべきである。しかし、その人は文化を見にいったのである。だから、教育と文化は相反する場合が多い。 
司馬遼太郎

'親密な愛情'

 

      三百四十四

 

 孤独になった人間同士はすぐさま前よりさらに親密な愛情を持って、互いにひしと寄り添う。いまこそ自分たちはお互いにとって生活の全部であると悟り、手を固く握り合うのだ。

第289章『空虚』

第281章『無題』