二人の人間

         四百三十六

 

 どんな人間の内部にも二人の人間が住んでいる。その一人は、他人にとっても幸福となるような幸福しか自分に求めない精神的な人間であり、もう一人は、自分のためだけの幸福を追求するためには、全世界の幸福をも犠牲にすることを辞さない動物的な人間である。

―トルストイ『復活』

覚醒

         四百三十五

 

 私に切要なのは、神秘的な創造物である自然の中に(書割と知りながらも感動して)たたずむことや自分より先に生きて思索し感得した人びと(詩人)との魂の交流であり、人間社会の制度や他人との余儀ない交際や身過ぎの富ではない。私にとって必要であり大切なのは、自分の精神的自我を信じることであり、生命を維持するために他人の作り出した機構を信じることではない。

 自分自身を、自分自身の愛情を信じて生きていくことはあまりに辛い作業である。自分自身を信じて生きていくということは、常にあらゆる問題を、安易な歓びを追求する唯物的な自我のためにではなく、たいていの場合、かえってその反対の方向で解決しなければならないということだ。自分を信じていれば常に他人から批判を受けるが、他人の作り出した機構を信じていれば逆に周囲の人びとから賛同を得られる。愉しいことだ。賛同を得られない人生は苦しい。

 徒手空拳で富の仕組みや愛について考えこめば、人は彼を滑稽な見栄っ張りの哲学者と見なし、財力と素封家との交際から生じる優越感をもとに贅沢な遊びをしたり装飾的な些事にふけったりすれば、人は彼のことをこなれた一人前の人間と誉めそやし、嘆くどころかむしろ祝福する。贅沢や装飾を得るための堕落をただす行為は人を恐怖に陥れ、非難と嘲笑の的になり、屈して堕落の人生にかしずけば、安堵され、仲間だと思われる。人は自分を信じて行動する人間にゾッとしないではいられないのである。

 自分の矜持のために闘うことは苦しい。自分を信じて善と考えることはすべて、周囲の人びとによって悪と見なされ、自分を信じて悪と考えることは、周囲の人びとによって善と見なされる。結局、兜を脱いで自分を信じることをやめ、他人のしきたりを信じるようになる。屈服の不快感はわずかのあいだで、まもなく悩みもなくなり、かえって大きな解放感を味わうという段取りである。これこそ内なる声の完全なる黙殺―いわゆる人間的完成と称されるものである。

 闘う人間は未完成の烙印を捺される。闘いが未完成の人間に特徴的なものならば、人は未完のままいるべきだろう。完成が人間を本質的に堕落させ、本質的な無為とエゴイズムの狂気に陥れるものならば、未完成のまま高貴な有為の知性に埋没するほうがいい。他人のしきたりという無制限の権力に隷従しないことからもたらされる高貴な苦悩は、魂の一瞬の覚醒にしか訪れず、そのわずかな覚醒は瞬く間に過ぎる。暢々と解放感になど浸っておれないのである。   

犯罪

         四百三十四

 

 日常の生活に他から求められる余儀ない都合さえあれば、その都合を狂わせたり失ったりするのが惜しいので、人は罪を犯す暇がなくなる。犯罪の温床は、信頼に見返る必要のないところに生じる怒りや絶望や自棄を育む『暇』である。